醍醐桜とは?
昔、みんなが和服を着て男はちょんまげ姿で馬に乗って刀を振り回しながら、『ア〜〜アァ〜〜〜〜〜』って言ってた時代。後醍醐天皇と呼ばれるおっさんが島に左遷されることになり、その左遷先までの旅の道中、『まだ?まだ着かないの?だるいなぁ』と言ってたかどうかは知らないが、休憩した場所で団子を食いながら茶をすすって『あ〜綺麗な桜だね』って褒めたらしいと言われる桜。もう一説に『せっかく来たんだから植えちゃえ♪』っていう説がある。だから付いた名前もおっさんの名前をとって醍醐桜っていう、ひねりも何も感じられないがとりあえず古い桜。
詳しい(?)時代背景
京都で平清盛と勢力を争い(=平治の乱 1159年)源義朝は殺され源氏は急速に力を失った。義朝の三男・源頼朝はその後、力をつけ諸勢力を次々と倒していき1192年に、日本で最初の武家政権 (=鎌倉幕府 1192〜1333年) を興した。頼朝の妻だった北条政子の父・北条時政は幕府設立に尽力した人物だったが、頼朝の死後に2代将軍・頼朝の長男の頼家を暗殺した。そして頼家の弟の実朝を3代目将軍に擁立して幕府の実権を握り、1203年初代執権となった。時政の息子・義時は1205年に2代目の執権となり、1219年父が擁立した3代将軍・実朝を殺し源氏を3代で滅ぼした。その後、北条氏は執権を世襲し幕府の実権を握り続けていった。後鳥羽上皇は北条氏の治世に不満で反・北条氏の者を募り、反乱を起こす(=承久の乱 1221年)。しかし京都で義時・泰時親子の大軍に敗れた上皇は隠岐島に流刑された。その後、義時は京都に朝廷監視のために六波羅探題を設置し、その要職を北条一門で固め執権体制をより強固にしていく。後に後醍醐天皇も政権を北条氏から取り戻そうと反乱を起こすが(=元弘の乱 1331年)事前に情報をつかんでいた幕府軍に京都宇治にて捕縛される。一度は許され身柄を開放された後醍醐天皇だったが、三種の神器を持ち出し再び京都笠置山で反抗の構えをとった為、幕府の大軍に追われる事となり山中で捕縛された。翌年、隠岐島に流刑されたが、隙を見て島を脱出。楠正成・足利高氏・新田義貞らの協力を得て1333年ついに鎌倉幕府を滅ぼした。
この時代の有名人
平清盛(1118〜1181年) 桓武天皇の流れをくむ伊勢平氏全盛期を築いた武将。源氏の反乱が各地で起こる中、1181年熱病で病死。
源義朝(1123〜1160年) 清和天皇の流れをくむ清和源氏の武将。平清盛と勢力争いするが敗れ、東に逃げる途中尾張にて殺される。頼朝・義経の父。
源頼朝(1147〜1199年) 義朝の3番目の子。平治の乱で平氏により鎌倉に流刑されるが、その後力をつけ奥州藤原氏、木曽義仲、平氏を倒し鎌倉幕府を設立、初代・征夷大将軍になる。義経の異母兄。
源義経(1159〜1189年) 義朝の9番目の子で頼朝の異母弟。幼名は牛若丸。平治の乱では平氏に捕まり京都・鞍馬寺に幽閉される。その後は藤原秀衡にかくまわれ成人。兄の挙兵にあわせ参戦して、木曽義仲を京都で破り、壇ノ浦で平氏を滅ぼすなど多大な功績を残す。しかし頼朝と不仲になり奥州藤原氏の元へ。しかし秀衡の息子の泰衡に攻められる。
木曽義仲(1154〜1184年) 源義仲とも言う。源頼朝のいとこ。1180年に平氏討伐の兵を上げ平維盛の軍を破って京都に入るが、粗暴な振る舞いのため後白河上皇の命を受けた頼朝は弟の源範頼・義経に義仲を攻めさせた。
北条時政(1138〜1215年) 源頼朝の妻・政子の父。鎌倉幕府設立に尽力したが、頼朝の死後2代将軍を謀殺し、鎌倉幕府・初代執権につく。
北条義時(1163〜1224年) 時政の子で、その後を継ぎ2代目執権に。後鳥羽上皇の承久の乱を抑え京都に朝廷を監視するための六波羅探題を設置し北条の執権体制を確立させる。
北条泰時(1183〜1242年) 義時の子で、その後を継ぎ3代目執権に。父とともに承久の乱で朝廷軍を破り、その後は評定衆や御成敗式目を制定した。
後鳥羽上皇(1180〜1239年 在位1198〜1221年) 反北条氏の者を募り、1221年に承久の乱を起こすが、北条義時・泰時親子に破れる。隠岐島に流刑され同地で病死。
後醍醐天皇(1288〜1339年 在位1318〜1339年) 北条氏から実権を取り戻そうと幾度か反乱を起こすが失敗し隠岐島に流刑される。1333年隠岐島から脱出後に北条氏討伐を天下に号令。楠正成・足利高氏・新田義貞の協力を得て鎌倉幕府を滅ぼす。1334年には建武の新政を実現するがその後、足利尊氏に反抗され南朝を興す。
足利尊氏(1305〜1358年) はじめは高氏という名前だったが、鎌倉幕府討伐の第一功労者として後醍醐天皇の名前「尊治」の一字「尊」を与えられる。建武の新政に反発する武士を引き連れ1338年征夷大将軍となり室町幕府(北朝)を興す。
その他もろもろいますなァ・・・
県の天然記念物らしい事を証明する看板?
後醍醐天皇がココに植林したという説(樹齢約700年説)と天皇がこの地に来たとき既にあったという説(樹齢約1000年説)との2説がある。1000年の根拠は幹を科学的に見たらそれくらいは経っているから。看板は1000年派。
位置的には最初の写真の真裏辺りかな?
春は込むので9月に撮ってみた。当然花は無い。
大きさ比較のため社の上にσ(^_^;)の靴(25.5cm)を置いてみた。幹は社より更に2mほど奥。
高齢のため支えがないと枝も折れてしまう。枝もそこら辺の桜の幹より太いかもね。
2代目醍醐桜
かなり有名な木なので西日本を中心に観光客は訪れる。紹介サイトも割りとあり『この周辺には他に桜の木は一本も無い』という説明をちょくちょく目にする。が、それは嘘。隣りにこの2代目があるもの。
2代目の全景
かなり普通サイズ。やはり花は無い。この右後ろに初代が立っている。
鎌倉時代より毎年春になると花を咲かせ続けている